しっかりしろ日本! 福岡県は全国でも三番目に多い約二万五千人のブラジル移民を送り出した。その大半を厳しい小作制や河川の氾濫に苦しめられた筑後川流域の出身者が占める。そうした歴史をひもとくうち、ある史実に行き当たった。
明治から大正をまたぐ二年間に、筑後平野のただ中、福岡県大刀洗町から約300人の隠れキリシタンの末裔たちがブラジルに渡ったという。18日は、日系移民がブラジル・サントス港に初上陸して百年の節目。大刀洗町を訪ねた。16日早朝、隠れキリシタンの伝統を受け継ぐ今村カトリック教会(大刀洗町)では約五十人の信徒たちが祈りをささげた。「ブラジル行きの渡航の安全を祈って、アーメン」。移民百年を記念して町から六人が18日、親せき縁者に面会するためブラジルへ渡航するのだ。
大刀洗町の人口は約一万五千五百人。田園地帯の中に保育園や老人ホームなど教会関連施設や雑貨屋、民家などが肩を寄せ合うように並ぶこの町は、驚くほどに国際的だ。大正時代から朝夕にネルドリップで入れたコーヒーを飲み、「ママイ(母さん)」「パパイ(父さん)」「ドミンゴ(日曜日)」など、筑後弁にポルトガル語が散らばった不思議な言語習慣が残る。
今回のブラジル訪問団の団員の一人、平田文雄さん(77)によると、町から1912年−13年の二年間に約三百人の信徒がブラジルに移住した。小作農家であるがための貧困に加え、「異教徒」への偏見や差別から、信仰の完全な自由を得たいという動機もあったという。
1908年に出港した第一回ブラジル行き移民船「笠戸丸」のうわさは、大刀洗にも伝わってきていたようだ。近隣の集落では北米やハワイへの移住者が帰国後、瓦葺きの屋敷を建て「アメリカ屋」などともてはやされてもいた。「ブラジルちゅう国には、えらい広か土地が待っとるらしい」。一攫千金を夢見ながらも、地の果て行きとも思える渡航に二の足を踏む村人たちに、今村教会の当時の神父・本田保(1855−1932年)は穏やかに語ったという。「カトリックの国だから、安心して行きなさい」
海を渡った信徒たちの九割は、再び大刀洗の地を踏むことはなかった。契約農園で苦しい労働に耐え、信仰を守り故郷を思いながらブラジルに根を下ろしていった。一握りの帰国組はコーヒー文化やブラジルの公用語であるポルトガル語を故郷に伝えた。
明るいニュースといえば、新しい世代の誕生だった。信徒の子息としてブラジルで生まれた初の二世、平田ジョン進(1913-74)は日系社会が誇る英雄として語り継がれている。一世たちの期待を背に、ブラジル最高学府であるサンパウロ大学法学科を卒業後、東京大学に留学。その後ブラジル連邦議員として日系初の政治家となった。大統領候補とも目されたが74年、遊説中に自動車事故で急逝。翌年、日本政府は生前の功労に対し勲二等瑞宝章を贈っている。
80年代以降は、ブラジルに生まれ育った三、四世たちが留学生として来日、ルーツを探して大刀洗を訪れるようになった。平田文雄さんを会長に、かって移民を送り出した家族・親せきで作る福岡県海外移住両筑地域家族会は、祖先の影を重ね合わせるように留学生たちを歓迎し、もちつきや茶会に誘って日本文化を紹介する。
「若い子孫はみんな高学歴」と目を細めながら、平田さんは「日本とブラジルの将来ば背負う立派な人間になれ、ちゅうて励ますとです」と話す。
かって、長崎の宣教師が「キリストの飛天地」と呼んだ大刀洗の地は、今また、遠くブラジルへ続く飛天地として異彩を放ち続けている。(平原奈央子)
・・・・<略>
最初の移民船が着いて百年。異国で根を張った勤勉さと誇りは、それを生んだ細り行く。そんな今昔図も百年は描き出す。父祖の地に向けて「しっかりしろ日本」の声が海を渡って聞こえてくる。
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Author:windofsyuyu
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四住期の教えでは、林住期は仕事を離れ哲学にふける時期だそうです。還暦を過ぎたばかり、まだ「生臭さ」は抜け切れません!